人間誰しも生きていれば自分の無力さに打ちひしがれることがあるものです。
- 何者にもなれない自分
- 何ひとつ成し遂げられないもどかしさ
- 何をやっても中途半端でうまくいかない現実
すべてが自分の思い通りにならないことは重々承知だけど、ふと自分と向き合った瞬間に気づかされる無力感ってありますよね?
「いったい私の存在価値って何なんだろう?」
おそらく、そんな悶々とした思いを抱いて生きている人もこの世の中には多いと思います。
私もそのひとりなんですけどね。
ということで、今回のテーマは「何もできない自分の扱い方」です。
何もできない自分とどのように向き合えばいいのか?
ぜひ参考にしていただけたらなと思います。
もくじ
何者にもなれない自分とは?
私生活でも仕事でも目標設定が大事だと言われることが多々ありますよね?
新年や誕生日、何かの節目を迎える時、多くの人が目標を掲げる傾向にあります。
しかし、ここから先に一歩も踏み出せず、場合によっては3日坊主で終わったりすることがほとんどだったりするわけです。
ふと気づくと目標からは程遠い生活を送っている自分がいるという・・・。
高みを目指したはずなのに、現実は何もできない自分がいたりするものです。
何かを成し遂げたわけでもなく、すべてが中途半端で、何者にもなれない自分から思わず目を背けたくなる現実がそこにはあるみたいな・・・。
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何もできない悔しさやもどかしさが自分を責め立てる
目標を立てても何も行動しないのであれば結果が出ないのも当然ですが、がんばったのに思うような結果が得られないというのは悔しいですよね?
しかし、努力が必ずしも報われるとは限りません。
こういった悔しさやもどかしさが自分を責める要因になってしまうこともあるわけです。
「せっかく目標達成に向けてがんばったのに、結果どころか何も変わっていない。こんなはずじゃなかった!」と嘆いたり、自信を失くす人もいるでしょう。
たしかに目標を立てて努力することは良いことだと思いますが、良い結果が得られなかった時、自分をどのように扱ったらいいかわからないという人も多いのではないでしょうか?
失敗した時は、反省と再挑戦が重要だと言われることが一般的に多いようですが、反省を履き違えて後悔してしまう人っていますからね・・・。
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すごい人が可視化されるネットの世界はある意味残酷かも知れない
ネットが普及してSNSによって情報が拡散されやすくなったこともあって、自分の特技を世の中にアピールできる人も増えました。
YouTubeのメイク動画とか、歌ってみた系とか、料理動画とか、本当にすごい人がたくさんいますよね?
ネット上では、すごい人を見つけるのもかんたんです。
わざわざ自ら情報を取りに行かなくても、Twitterのタイムラインにフォロワーさんがリツイートした内容が流れてきたりしますからね。
ネットのない時代だったら、クラスで一番勉強ができたり、足が速かったりするだけで一目置かれて人気者になれたのに、現代のネット社会においては「もっとすごい人」がすでに可視化されているので、「上には上がいる」ことを思い知らされるだけだというのもある意味残酷ですよね?
中には、そんな「もっとすごい人」を目の当たりにすることで、劣等感や無力感を刺激されてモチベーションが一気に低下する人もいるかも知れません。
自分なりに努力してそれなりの結果は得られたけれど、ネット上で可視化された「もっとすごい人」の存在によって自己重要感が損なわれてしまうのであれば、ネットから距離を置いた方が良いでしょう。
「もっとすごい人」が気になって、自己評価が低くなってしまうのも「何もできない自分」を生み出す原因だったりしますからね。
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悔しさやもどかしさは必ずしもバネにはならない?
悔しいことがあったり、自分にもどかしさを感じたりした時、それをバネにして努力できる人はもちろん素晴らしいと思います。
しかし、一般的に言われる「悔しさをバネにしてがんばれ!」という言葉は、必ずしもすべてにおいて当てはまるわけではないということは、覚えておいた方が良いでしょう。
「悔しさをバネに」というのは、根性論に過ぎません。
たとえ悔しさをバネにモーレツにがんばったとしても、それが結果を補償してくれるわけでは決してありませんし、そもそも努力の方向が間違っていたら本末転倒です。
悔しさをバネにできるのは正しい努力ができる人限定だと思った方が良いでしょうね。
下手に根性論で自分を追い詰めて、悔しさをバネにがんばった結果、うまくいかない現実に嫌気が差して無気力になったり、何もできない自分の無力さに苛まれて心を病んでしまう危険もありますからね。
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ありのままの自分を受け入れる勇気
さて、ここからは何もできない自分とどのように向き合えばいいかについて掘り下げていきます。
何もできない無力な自分を認めたくない気持ちは理解できます。
思わず現実から目を背けたくなることもあるでしょう。
↓の記事をお読みいただければわかるとおり、私にもそんな時期がありました。
しかし、私たちが生きているのは現実の世界です。
自分の生きている世界から目を背けていても、何も変わりません。
まずは自分の無力さや未熟さも含めてありのままを受け入れることが、自分と向き合ううえで重要です。
何もできない無力な自分を無理して「できる自分」に変える必要はありません。
拒絶したい現実をありのままに受け入れられるように変化することが優先ではないでしょうか?
ありのままの自分には不都合な要素も含まれていることを覚えておくと良いでしょう。
自分の無力さを知ることが強みになる
人はそもそも何者でもありません。
そこに存在意義を求めるから苦しくなるのではないでしょうか?
「自分は大したことない」というのを前提にやれることを精一杯やっていれば、それで十分だと思うんですよね。
たしかに世の中には特別な人がいたりするのかも知れませんが、しょせん「自分は自分、他人は他人」ですからね。
「いや、私はこんなもんじゃない!やれば必ずできるはずだ!」という考えも、たしかに成長段階では大切だったりしますが、思い込みに支配されてうまくいかない現実を前に失望するのであれば、「何もできない私だけど、何者にもなれない人生なんだから仕方ない!せめて後悔しないように生きよう!」と開き直った方が健全かも知れません。
現実をありのままに受け止めることができたら、あとは「何もできない自分」がどれだけやれるかを試すゲームの始まりです。
逆に何もできない0の状態以下になることは難しいので、何かしらきちんと取り組んでいれば0を1にすることはできると思います。
しかし、世の中には0を0と認めず、いきなり100や200を求めてしまう人も多いようです。
まったくの0の状態で100や200を求めているから何もできない自分に失望するのではないかと思うんですけどね。
まずは0の状態を認め、0を1にする努力が必要です。
何もできない無力な自分を認めてこそ、人は謙虚に学ぶ姿勢でいられるのかも知れません。
謙虚に学ぶ姿勢というのは、結果を焦らず、変に期待することなく、コツコツと地道に物事を継続する力にもつながります。
すべては自分の無力さを知ることから始まるといっても過言ではないかも知れませんよね?
何も成し遂げなくてもいい!存在価値はそこにある!
何もできない自分を責めたり、悔しさやもどかしさを抱えて生きている人というのは、何か偉業のようなものを成し遂げようと考えている傾向が強いわけですが、その背景には世間から評価されたいといった承認欲求があったりするものです。
とくに現代のネット社会では、先ほども書いたように「すごい人」が可視化されているため、無力感や劣等感が刺激されて、満たされずに内に秘めている承認欲求や自己重要感が肥大化されやすい構造になっています。
それによって「こうしなければ幸せにはなれない」みたいな偏った価値観が生まれやすいというわけです。
しかし、人間は何かを成し遂げなければ幸せになれないものなのでしょうか?
自分の身近にいる家族や友人のために何かをすれば、承認欲求や自己重要感は満たされるものなんですけどね。
問題は、SNSなどによってそれらの欲求が肥大化してしまっていることです。
無理に何かを成し遂げる必要はありません。
満たされない欲求に執着するよりも、身近にいる人たちを愛することができていれば、その人の存在価値は十分あるのではないでしょうか?
と、何だか綺麗事のような終わり方になってしまいましたが・・・
実はこの記事を書く数日前、たまたま「何もできない自分に存在価値なんてない!」という言葉を耳にする機会がありまして、言葉を発した本人に対して私が思ったことを書いてみました。
「何もできなくてもそれでいい!そこにいてくれるだけで、キミの存在価値は十分あるよ!」と伝えたかったわけなんですけどね・・・