「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」という言葉があります。
この言葉をはじめて聞いたのは、かなり昔だったと記憶していますが、私は愚かな人間なので歴史から学ぶよりも、実際に行動して時には痛い思いをしながらひとつひとつ経験を積んで学ぶ方がしっくりくるようです。
世の中に賢い人はたくさんいるけど、私の場合は、知識や情報よりも経験の方が学びが大きいことを実感しています。
賢者のように歴史に学ぶことができたら、人生遠回りしないで済んだのかも知れません。
しかし、私は愚者の学び方が自分に合っていて、下手に賢くならなくてもいいかなと思っていたりもするんですよね。
「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」というこの言葉、一見すると経験に学ぶよりも歴史に学んだ方が良いといったふうに思い込みがちなんですけど、重要なのは優劣ではなかったりします。
言葉の解釈って人生にも影響を及ぼすので大事ですよね?
もし自分の愚かさに失望するようなことがあっても大丈夫です。
自分の愚かさから目を逸らさないでください。
ということで、今回は「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というこの言葉について掘り下げていきます。
もくじ
オットー・フォン・ビスマルクの名言「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉は有名ですが、誰が発した言葉なのかまでは知らない人も多いのではないでしょうか?
私もまったく知らなかったのでググって調べたところ、どうやら初代ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクという人の格言(?)のようです。
なので、当然、原文はドイツ語なのですが、直訳するとこんな文章になります。
愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。(直訳)
まあ、もっともらしいことを言っているのはわかるんですけど、なんだかポジショントークっぽいですよね?
大衆を愚者と勝手に定義付けて、その違いを主張することによって自分の優位性をアピールするみたいな。
優劣をつけて両者を比較することで、コントラスト効果でも狙っているのかなといった印象を受けました。
あと、愚者の「信じている」に対して、賢者は「好む」という動詞の使い方をしているのが少し気になったのと、どうして賢者には「最初から自分の誤りを避けるため」という目的が記述されているのに、愚者にはそれがないのかな?というのも引っ掛かりますね~(笑)
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愚者と賢者の学び方は具体的にどう違うのか?
経験から学ぶ愚者の学び方を一言で表すと非効率だと思うんですよ。
行動することによって、うまくいったり、いかなかったり、時には悔しくて泣いたり、傷ついたりもするし、時間も労力も使うので非常に泥臭い学び方とでも言いましょうか。
それに対して、歴史(他人の経験)から学ぶことを好む賢者の学び方は効率的ですよね?
自分が行動する前に過去の前例(歴史)に学んで、最初から無駄なことはやらないという方法論です。
ここでいう歴史というのは、
- 繰り返す人類の歴史
- 歴史上の偉人たち
- 蓄積された過去のデータ
- 過去の事例
- 他人の経験談
といったようなものです。
歴史に学ぶという賢者の学び方は、たしかに泥臭い愚者の学び方よりもスマートに思えます。
しかし、物事には経験則が重要だったりする場合も多々あるわけで、私たち凡人には他人の経験からそこまで深く学ぶのは難しいのではないでしょうか?
また、他人と自分では前提条件も違いますし、他人の経験を自分の中に落とし込んで、さらに環境や時代背景の変化にも対応する必要があるため、実用レベルに至るまでのハードルはかなり高く感じます。
まあ、それができてしまうから賢者なんでしょうけどね。
私の場合、やはり愚者なので経験を積んだ方が身につくというか、非効率ではあるけれど、実際に失敗したり、痛い思いをして学んだことが後々、仕組化や効率化につながるといった感じなんですよね。
頭の中だけでなく、経験を通して五感で学ぶとでも言いますか・・・。
たとえば、↓の記事に書いてあることも、実際につらかったり、悔しかったりといった経験を何度も味わって学んでいます。
就職氷河期世代の恨みはないけど生き残るために必死だったのは事実!
↑の記事でも触れているとおり、私が自分に合った働き方やライフスタイルを見出して、自立できている背景には↓のような経験があるわけです。
思い出すと今でも泣けてくるような経験もありますが、そこから学んだことは計り知れません。
あらためて自分の愚かさを実感させられます。
下手に賢くなろうとしなくてもOK!
先ほど「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉には、どこかポジショントークのようなものを感じると書きましたが・・・
「自分は経験から学ぶと思っていたけど、それは愚かなことなんだ?このままじゃヤバイ!歴史に学ぶようにならなきゃ!賢者を目指さないと・・・」
なんて考えは不要です。
冒頭でも軽く触れたとおり、優劣の問題ではないと思うんですよ。
下手に賢くなろうとするよりも、まずは自分に対して素直でいることが大切ではないかなと。
愚者だから舐められるとか、変なことは考えない方が良いと思いますよ。
無理に愚者であることを否定する必要はありません。
それは、↓の記事のように無理にマイナス思考を否定することにも通じるものがあります。
「マイナス思考は絶対ダメ!」と否定する考え方が改善を妨げる理由とは?
大事なのは優劣をつけることではなく、素直に現状を受け入れることではないでしょうか?
自分に合った学び方を選べばいい
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉を知った時の私は、こんなふうに解釈しました。
そうか!私って愚者なんだ!
だから、ゆっくり時間と労力をかけて経験を積んで、ひとつひとつ学んでいけばそれでいいんだ!
愚者という言葉に劣等感はありません。
そんな感じでこれまで生きてきましたが、経験から学んだことが一番実践的だと実感しています。
たしかに賢者タイプの人は、わざわざそんな面倒なことをしなくても、学ぶことができてすごいなと思いますけどね。
自分にはないものを持っている人は、魅力的ですし、尊敬に値しますからね。
やはりここでも優劣ではなくて、自分に合った学び方に気づくことが重要です。
愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。(直訳)
↑の直訳について、先ほど“愚者の「信じている」に対して、賢者は「好む」という動詞の使い方をしているのが少し気になった”と書きましたが、実はこれってどちらを好むかって話なんですよね。
優劣ではなくて好みなんです。
だからといって、自分が好きな方を選択すれば良いというわけではありません。
どちらを好むかよりも重要なのは、どちらの学び方が自分に合っているかを見極めることです。
そのためには、己を知る必要があります。
一番愚かなのは自分を賢者だと思い込む愚者?
己を知るといえば、一番愚かなのは、自分のことを賢者だと思っている愚者ではないでしょうか?
己を知ることができていれば、自分に合った学び方もわかるはずです。
しかし、自分のことがわかっていなくて、勝手に賢いと勘違いしてしまうと何も学ぶことはできません。
とくに情報化社会といわれる現代では、インターネット上で情報を集めただけで勝手に学んだ気になってしまったり、SNSでちょっとした承認欲求が満たされることによって謎の万能感に支配されて、自分が賢くなったと錯覚してしまう人もいたりするのではないでしょうか?
たしかに人にバカにされたくないとか、賢く見られたいという気持ちも理解できますけど、自分で自分自身のことを知ろうとせず、思い込みで賢者を気取っていても、成長にはつながりません。
誰でも情報としての歴史にアクセスできる現代において、この傾向って強いと思うんですよね。
逆にネット上の(自称も含めて)すごい人たちに劣等感を刺激されて、ハングリー精神に火をつけるというのは、行動のキッカケにもなるし、経験としては良いかも知れません。
勝手に歴史に学んだ気になっていても、実際には情報をインプットしているだけで、実践までには至らないという人も多いですからね。
大切なのは己を知ること・学ぶ姿勢
最後に要点をまとめておきましょう!
下手に賢くなろうとするよりも大切なのは、
- 己を知ること
- 学ぶ姿勢
↑この2つです。
たとえ愚者であっても構いません。
自分の愚かさを自覚して、コツコツと経験を積んで少しずつ学んでいけばいいじゃないですか?
時には悔しくて泣きたくなることや傷つくこともあるでしょう。
でも、その痛みが教えてくれることが一番の学びなら、それが自分に合った学び方です。
もちろん歴史から学べる人もすごいですし、尊敬します。
世の中にはまったく未経験のメニューを、普段はほとんど料理もしないのに、ちょっとレシピを見ただけで美味しく再現できたりする人もいますからね。
残念ながら私は、何度も挑戦と失敗を繰り返しながら覚えていくって感じです。
そして、一番愚かなのは、自分を知ろうとせずに勘違いして、勝手に賢いと思い込むことではないかなと・・・。
ところで、この名言に一節を加えて、こんなふうに言われることもあったりします。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。そして聖人は経験から悟る。
聖人レベルになると、経験から悟るらしいですよ。
「深い瞑想、思索の果てに悟る」とか、ちょっと意味がわからないというか、当然、愚者である私には無理な話ですが(笑)